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論文 大島徹也[ジャクソン・ポロック―オールオーヴァーのポード絵画の成立過程] 5,6

愛知県美術館ポロック展
開催予告ポスター

「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」

2011年11月11日(金)-2012年01月22日(日) 愛知県美術館
2012年02月10日(金)-2012年05月06日(日) 東京国立近代美術館(巡回)

企画者: 愛知県美術館 大島徹也学芸員


■ 最新情報 7月25日公開
  「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 公式ウェブサイト




大島徹也
「ジャクソン・ポロック――オールオーヴァーのポード絵画の成立過程」
『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)、23-50頁。


6/07: 「ポーリングとオールオーヴァーネス」 23-25頁 (リンク)
6/07: 「ポーリングの技法の影響源」 25-30頁  (リンク)
6/14: 「ポーリングの技法の展開」 30-35頁 (リンク)
6/14: 「オールオーヴァーな様式の影響源」 35-39頁 (リンク)
6/21: 「オールオーヴァーな様式の展開」 39-43頁
6/21: 「オールオーヴァーのポード絵画の成立」 44-46頁

■ 6セクション構成
  上記日 3記事分載(記事初公開日) 


【オールオーヴァーな様式の展開】 39-43頁

 上に見たポロックのオールオーヴァーな様式の類例はすべて1940年代のものであった一方、ここでポロック自身の画歴を振り返ってみると、1930年代、すなわち彼の画歴の初期の段階で、すでにポロックはのちの自身のオールオーヴァーネスを先取りしていたことが分かる。1934-38年頃の作品に、《オーヴァーオールな構成》(図19)というものがある。この作品はもとは無題で、《オーヴァーオールな構成》というタイトルはカタログ・レゾネの編者が付けたものである。したがってポロック自身が「オーヴァーオール」(overall、「端から端までの」)という言葉をこの作品について使ったわけではないが、彼のオールオーヴァーな傾向は、38.1×50.8センチの小品とはいえ、この作品において早くもはっきりと現れている。そこでは、下端部に黒の不規則な帯状の領域が構図の土台のようにして存在しているものの、赤、黄、白、黒それぞれの色の細かなストロークが、ほぼ均等に分散しつつ画面を埋め尽くしている。このようなオールオーヴァーなポロックの初期作品は他にはなく、かくしてこの《オーヴァーオールな構成》は孤立した作例となってはいる。しかし、同時期の《炎》(1934-38年頃、図20)や《人物と旗のある構成》(1934-38年頃、図21)などにも目を向けてみれば、言葉の厳密な意味において「オールオーヴァー」というのではないにせよ、ポロックは画面上のどこかから始まるうねるようなリズムで全体を覆い尽くしてしまおうとする気質を、画家として元来持っていたことに気づく。
 ポロックのオールオーヴァーな傾向が再び明確に現れるのが、1943年の《壁画》(図22)である。(この時点でポロックはなおも、先に見たトビー、ソーベル、マッソン、ミロの仕事のいずれにも触れていない。)《壁画》は、ポロックのパトロンだったペギー・グッゲンハイムの注文によって、彼女のアパートを飾るために制作されたもので、そのサイズは243.2×603.2センチにもなる大作である。キャンバスを支持体としているが、画面は文字通り「壁画」的なサイズで、太い黒の輪郭線による抽象化された人物像のようなモチーフで端から端まで反復的に埋め尽くしたオールオーヴァーな構成となっている。その巨大なサイズは画家自身の選択ではなく、注文主の指示によるものであったが、この作品においてオールオーヴァーな構成が壁画サイズの大画面でなされたことは極めて意義深い。ポロックはオールオーヴァーのポード絵画に着手する1947年、グッゲンハイム研究奨励金の申請において、次のようなステートメントをなしている。


 私はイーゼルと壁画の間で機能する移動可能な大絵画を描くことを意図している。私はペギー・グッゲンハイム女史の大絵画[《壁画》]で、このジャンルの前例をなしている……。
私はイーゼル画は廃れつつある表現形式であると考えており、現代的感覚の傾向は壁絵ないしは壁画へと向かっている。イーゼルから壁画へと完全に移行するには、機はまだ熟していないと思う。私が描こうと考えている絵は中間の状態に当たり、未来の方向を、そこに完全に到達することなしに指し示す試みとなろう。(強調原文)[43]


ここでポロックは「大絵画を描くことを意図している」と明言してはいるものの、彼が本質において言わんとしているのは、決して単純に作品の大きさの問題ではない。ポロックは、現実の世界から分離した別の小さな自律的世界としてのイーゼル画の概念を超え出ることを目論んでいたのであり、そこではある程度作品の物理的な大きさが問題となってくるにしても、肝要なのは作品の画面を構成するその仕方である。ポロックが自らのオールオーヴァーな構成において追求したものの一つは、画面がその枠を越えて拡張してゆくような効果であった。それは彼にとって、因襲的なイーゼル画の範疇に収まらない、しかし、かと言って一般的な壁画の範疇にも入らない、新しい種類の絵画への可能性を孕んだものであった。すでに述べたように、1943年の《壁画》という作品の巨大な画面はペギー・グッゲンハイムから与えられた条件で、元々においてはポロック自身の意思によるものではなかったが、ともかくも実際に壁画的なサイズのそのキャンバス画でオールオーヴァーな構成を試みたことは、1947-50年のオールオーヴァーのポード絵画の制作にとって重要な経験となったはずである。ここでこのように「イーゼル画の超出」という問題とオールオーヴァーネスを絡めて考えてみると、先に見たトビー、ソーベル、マッソン、ミロの仕事は、いずれもあくまでイーゼル画の範疇の内部での問題であり、ポロックのオールオーヴァーネスは、その意図において、それらとは一線を画するものである。
 その後1944年には、抽象化された人物像によるオールオーヴァーな構成の点で、多分に《壁画》の流れを汲んだ《ゴシック》(図23)のような作品が描かれている[44]。また、その年から翌1945年にかけて、すでに見たように、ポロックはヘイターの工房で《無題》(1944-45年頃、図16)のような版画を制作しており、そこではいくつもの線が、形象を描出する役割をひとまず離れて、画面上で縦横に自由に走り回っている。さらに、1945年頃に制作された油彩画《八の中に七があった》(図24)では、ポロックは黒の絵具を、いったん描き上げた画面の上にチューブから直接絞り出して、全面にわたってアラベスクのようなドゥードリング(doodling、いたずら書き)を行っている。(この作品では、その黒の目くるめくドゥードリングの陰に隠れて目立たないが、画面上のいたるところで、さまざまな色の細いポーリングも施されている。)また、同じ頃に制作された《無題》(1945年頃、図25)では、下に見る1946年の〈草原の音〉シリーズの数点と密接な関係を持つオールオーヴァーな画面が生み出されている。
 そうして《黄色のコラージュ》(図12)と《自由造形》(図13)の二作が描かれたのと同じ1946年、ポロックは初めてまとまった形でオールオーヴァーな構成を探求することになる。その年彼は、〈草原の音〉シリーズという一連の七点の油彩画を制作しているが、同シリーズの中の《熱の中の眼》(図26)など数点では、それまで《壁画》や《ゴシック》などで顕著に見られた形体を囲い込む太い黒の輪郭線は、無数の似たような重いストロークで覆われるようになり、画面の均質性が非常に高まっている。こうして1946年、ポロックのオールオーヴァーネスもまた、成熟の兆しを見せていた。




【オールオーヴァーのポード絵画の成立】 44-46頁

 1947年、ついにポロックはオールオーヴァーのポード絵画の創造に至る。そのプロセスについて、ウィリアム・ルービンは次のように述べている。「オールオーヴァーな様式が初めに来て、そしてそれが提出したあるいくつかの問題に対する解決策として、ドリップ技法を引き出したのである。これは1946年の遅くに、《微光体》や《熱の中の眼I》のような移行期の作品との関連において生じた」[45]。しかしながら、ポロックのポーリングとオールオーヴァーネスの融合の仕方は、実際のところ、そのような一方的なものではない。本論で見たように、ポーリングの技法もまたポロックの画歴の中で、1942年頃の《男性と女性》(図6)以降、紆余曲折はありながらも展開してきていたのであり、それゆえポーリングがその展開の中で、他方ですでに実現されていたオールオーヴァーネスに到達していったというように見ることも、また大いに可能である。すなわち、決して《熱の中の眼》のような1946年のオールオーヴァーな絵画での絵筆による無数のストロークが、そのまま単純にポーリングに変化したわけではないのである。
 最後に、いま一つの興味深い例を見ておこう。ポロックは1947年、《銀河》(図27)という作品を描いている。この作品を「オールオーヴァーのポード絵画」と呼ぶべきかどうかは議論の余地がある。もしそう呼ぶのならば、《銀河》はポロックが最初に制作したオールオーヴァーのポード絵画の一つであろう。あるいはむしろ、1947年の作ではあれど、その前年の《黄色のコラージュ》や《自由造形》と同様に、オールオーヴァーのポード絵画の前駆的作品と見るべきかもしれない。そうだとすれば、この《銀河》は、ポロックのポーリングがオールオーヴァーネスに到達し、オールオーヴァーのポード絵画が誕生する直前の段階を示している。この作品は1946年頃に描いた《小さな王様》(図28)に加筆したものである。《小さな王様》の充填された抽象的な画面は非常に判読しにくいが、たとえば画面上部中央に、真ん中に円のある逆三角形の形体が描かれているのが確認できる。それは、他の作品での同様の形体との関係から、人物像(小さな王様?)の頭部を表していると思われる。この作品は1946年に「今世紀の美術」画廊で開催されたポロックの個展に出品された。その後、1947年のある時、ポロックはその作品のあちこちに絵筆でアルミニウム塗料を上塗りし、さらに、黄色がかった白の塗料などを画面上広範にポーリングして《銀河》という作品に変えた。ここで思い出されるのは、「イメージにヴェールを掛ける」というポロックの言葉である[46]。この言葉はクラズナーによれば、直接には、絵具チューブからの絞り出しによるアラベスク状のドゥードリングがなされた1945年頃の《八の中に七があった》(図24)について言われたものであるが[47]、1947年の《銀河》にもよく当てはまる。ポーリングによるヴェールはまもなく画面全体に及び、そうして、旧套的なイメージの世界を克服した新しい絵画フィールドが生み出されるのだった。
 ポロックのポーリングおよびオールオーヴァーネスの影響源についての、さまざまな者によるさまざまな指摘や主張は先に見たとおりであり、それらの議論の過熱した多様さは一種異常とも言えるが、それは取りも直さず、ポロックのオールオーヴァーのポード絵画がそれだけモダンアートのハードコアであることの表れであろう。ポロックにおいて融合し革新をもたらしたポーリングとオールオーヴァーネスの二要素は、その後また別々に後代に注目すべき影響を及ぼしてもゆく。それらについて詳述する紙幅はもはやないが、ポーリングはたとえばヘレン・フランケンサーラーを介してモーリス・ルイスへと[48]、オールオーヴァーネスはたとえばフランク・ステラへと流れ込み[49]、それぞれそれらの作家による次の新しい重要な展開を引き起こしていった。ポロック自身がオールオーヴァーのポード絵画に取り組んだのは1947年から1950年までの四年間に過ぎなかったが、こうして彼のその一連の絵画は、モダンアートの展開における一大結節点として、その存在を美術史に深く大きく刻み込んでいる。




[註]

[43] O’Connor and Thaw, Catalogue Raisonné, 4:238, doc. 67.

[44] ポロックはこの《ゴシック》について、次のようなメモを残している。「青い細部(壁画)三つの部分を持った黒人ダンサー――84½×56」。O’Connor and Thaw, Catalogue Raisonné, 1:98, 4:233, doc. 53.

[45] Rubin, “Jackson Pollock and the Modern Tradition, Part I,” 17.

[46] クラズナーは、B・H・フリードマンによるインタビューの中で、次のようなエピソードを語っている。「私は彼[ポロック]の絵画が展開するのを見てきました。それらの多く、最も抽象的なものの多くは、多かれ少なかれ認識可能なイメージ――頭や、身体の一部や、空想的な生き物――から始まっていました。かつて私はジャクソンに、一定のイメージが露わにされた時点でどうしてその絵を終えないのかと聞いたことがあります。彼は言いました。『俺はイメージにヴェールを掛けたいんだ』」。Krasner, “An Interview with Lee Krasner Pollock by B. H. Friedman,” 7.

[47] William Rubin, “Pollock as Jungian Illustrator: The Limits of Psychological Criticism, Part II,” Art in America, vol. 67, no. 8 (December 1979): 84, 86; C. L. Wysuph, Jackson Pollock: Psychoanalytic Drawings (New York: Horizon Press, 1970), 22.

[48] ルイスは、ポロックおよびフランケンサーラーとの関係について、次のように述べている。「彼女[フランケンサーラー]は、ポロックと[自分にとって]可能であることとの間の橋渡しでした」。James McC. Truitt, “Art-Arid D.C. Harbors Touted ‘New’ Painters,” Washington Post, 21 December 1961.

[49] ステラは、彼の1958-60年のブラック・ペインティングの構図とポロックのオールオーヴァーネスとの関係について、次のように述べている。「私は、もしそれがポロックのようなものであるとするならば、いわばネガティヴなポロック主義的なものを手に入れようとしました。……私は均等性、一種のオールオーヴァーネスを得ようとしました。そこでは強度、彩度、濃度が画面全体にわたって一定を保ちます」。William S. Rubin, Frank Stella (New York: The Museum of Modern Art, 1970), 29.


[図版キャプション]

(図6) ジャクソン・ポロック 《男性と女性》 1942年頃 油絵具、キャンバス 184.4×124.5 cm Philadelphia Museum of Art

(図12) ジャクソン・ポロック 《黄色のコラージュ》 1946年 油絵具・エナメル塗料・新聞紙コラージュ、メゾナイト 60.5×48.0 cm 富山県立近代美術館

(図13) ジャクソン・ポロック 《自由造形》 1946年 油絵具、キャンバス 48.9×35.5 cm The Museum of Modern Art, New York

(図16) ジャクソン・ポロック 《無題》 1944-45年頃 エングレーヴィング・ドライポイント

(図19) ジャクソン・ポロック 《オーヴァーオールな構成》 1934-38年頃 油絵具、キャンバス 38.1×50.8 cm The Museum of Fine Arts, Houston

(図20) ジャクソン・ポロック 《炎》 1934-38年頃 油絵具、メゾナイト 50.8×76.2 cm The Museum of Modern Art, New York

(図21) ジャクソン・ポロック 《人物と旗のある構成》 1934-38年頃 油絵具、キャンバス 27×29.8 cm The Museum of Fine Arts, Houston

(図22) ジャクソン・ポロック 《壁画》 1943年 油絵具、キャンバス 243.2×603.2 cm The University of Iowa Museum of Art, Iowa City

(図23) ジャクソン・ポロック 《ゴシック》 1944年 油絵具・エナメル塗料、キャンバス 214.8×142.2 cm The Museum of Modern Art, New York

(図24) ジャクソン・ポロック 《八の中に七があった》 1945年頃 油絵具、キャンバス 109.2×259 cm The Museum of Modern Art, New York

(図25) ジャクソン・ポロック 《無題》 1945年頃 パステル・ブラッシュ・エナメル塗料・スグラフィート、紙 65.4×52.1 cm

(図26) ジャクソン・ポロック 《熱の中の眼》 1946年 油絵具、キャンバス 137×109 cm Peggy Guggenheim Collection, Venice

(図27) ジャクソン・ポロック 《銀河》 1947年 油絵具・アルミニウム塗料・小砂利、キャンバス 110.4×86.3 cm Joslyn Art Museum, Omaha, Nebraska

(図28) ジャクソン・ポロック 《小さな王様》 1946年頃 油絵具、キャンバス 110.4×86.3 cm




■ 転載者(私)の判断によって(ブログ書式上の都合)上記論文中、
  一部『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)とは、
  異なる表記方法(書式が異なるだけです。)をしております。

1: フォント、フォント色
2: 註
3: (強調原文)の文字上の「、」(省きました。)
4: 文頭スペース=「私はイーゼルと壁画の間で…」
5: 範疇=ワク(ルビ)

■ 上記論文中に「図」と記されていますが、当記事では図版の掲載は省きました。
『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)、23-50頁では、図版が掲載されております。

■ 上記論文は愛知県美術館及び筆者の許可を得て掲載しております。
  文章の転載はお控えください。



愛知県美術館 公式ブログ 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」
《「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」の企画者、大島学芸員による記事です。》

1/20 当ブログ 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 展覧会ニュース記事》
《美術の窓誌 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 詳細紹介ページのスキャン画像を公開》




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【フェルメール《地理学者》 大航海時代の英知の結集】 豊田市美術館

フェルメール展画像 001
ヨハネス・フェルメール《地理学者》1669 年
油彩・キャンヴァス 53,0 x 46,6 cm シュテーデル美術館蔵



フェルメール展画像 002-1 フェルメール展画像 003-1
画像左: レンブラント・ファン・レイン
《サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ》 1630-31 年頃
油彩・板(オーク材) 62,0 x 50,1 cm シュテーデル美術館蔵

画像右: ペーテル・パウル・ルーベンスとヤン・ブックホルスト
《竪琴を弾くダヴィデ王》 1616 年頃-40 年代後半
油彩・板 84,0 x 68,0 cm シュテーデル美術館蔵


《歴史画と寓意画》
壮麗でダイナミックな17 世紀バロック美術をまさに体現しているのは、
神話や聖書の物語に基づく歴史画の分野です。

生き生きとした人物描写と輝く色彩で人々を魅了したフランドル(南ネーデルラント)の
巨匠ルーベンスは、アントワープに大規模な工房を構えて、
イエズス会主導のカトリック復権に大きな役割を担いました。

一方、新教国として独立を遂げたオランダ(北ネーデルラント)では、
旧約聖書からの主題が多く描かれています。
レンブラントは、人物の感情表現の描写に優れ、
そのクライマックスを抑制のきいた緊張感のある構図のうちに凝縮させました。

また、写実的な細密描写を得意としたフランドルやオランダの画家たちは、
物語の舞台を構成する風景描写や、豊かな彩りを添える風俗画的・静物画的要素にも
大いに手腕を発揮しました。




フェルメール展画像 004-1 フェルメール展画像 005-1
画像左: フランス・ハルス《男の肖像》1638 年
油彩・板(楕円形のオーク材)
94,5 x 70,5 cm シュテーデル美術館蔵

画像右: ヤン・ブリューゲル(父)の工房
《ガラスの花瓶に生けた花》1610-25 年頃
油彩・銅板 22,6 x 18,4 cm シュテーデル美術館蔵


《肖像画》
人物をいきいきと表現し、個性を発揮するために、
画家はしばしばジャンルの壁を超え、歴史画や風俗画の物語的な要素を持ち込んでいます。

オランダでは台頭する裕福な市民の姿を、人物に焦点をあてた簡潔な構図で描く肖像画が好まれました。
ハールレムで活動したフランス・ハルスは、人物の感情の動きをわずかな筆の動きで
即座に捉える卓越した技で人気を博しました。

オランダのこうした肖像画と対極をなすように、フランドルでは人物を装飾的な背景や身分を
表す持ち物とともに描く宮廷風な肖像画が好まれていました。


《静物画》
このジャンルの成立に貢献したヤン・ブリューゲル( 父) の華麗な「花の静物画」では、
博物学的な情熱が追求されるとともに、実際には咲く地域も季節もばらばらな花々が
装飾的に構成されており、異国の珍しい品を描いた他の静物画と同様、
富を誇示する調度品としても好まれました。




フェルメール展画像 006
ピーテル・ヤンセンス・エーリンハ
《画家と読みものをする女性、掃除をする召使のいる室内》1665-70 年頃
油彩・キャンヴァス 82,0 x 99,0 cm シュテーデル美術館蔵


《風俗画と室内画》
美徳や悪徳、季節の移り変わりを農民の営みとあわせて描きだした一連の作品は、
中世にまでその伝統をさかのぼることができます。

一方で、画家たちは聖書の物語などよく知られている主題を継承し、
アレンジを加えて風俗画的な場面として描き出しました。

さらに17 世紀後半のオランダでは、都市に暮らす裕福な市民の家庭でのひとこまや室内の情景など、
台頭する市民社会を背景にした作品が数多く登場しました。




フェルメール展画像 007
ルーカス・ファン・ファルケンボルヒ
《凍ったスヘルデ川とアントワープの景観》 1593年
油彩・板  42,2 x 63,0 cm シュテーデル美術館蔵


《地誌と風景画》
「風景」は17 世紀になると聖書の物語や神話の舞台としてではなく、
独立した主題となり、次第に専門分野へと細分化していきました。

16 世紀のフランドルで、宗教的主題と背景の風景の
比重を逆転させることにより生み出された風景表現は「世界風景」と呼ばれ、
比較的高く設定された地平線と、パノラマ的な眺望を特徴としています。

一方、オランダでは、海景画の分野が発展し、自然の猛威をふるう海と文明社会との間の
緩衝地帯ともいえる海岸の砂丘の主題も新しく登場しました。



【データ】
■ 会  場 : 豊田市美術館(〒471-0034 愛知県豊田市小坂本町8-5-1)

■ 会  期 : 2011 年6 月11 日(土)~ 8 月28 日(日) (会期71 日間)
10 時~ 17 時30 分(入場は17時まで)
月曜休館 ただし7 月18 日、8 月15、22 日は開館

「豊田市美術館 公式サイト」

「中京テレビ フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展 専用公式サイト」



☆ 『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』に関する記事を連載でUPいたします。
  次回は、会期スタート後の展示室内レポートを予定しております(日は未定)。



※ 画像、文章の転用はお控えください。

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【フェルメール《地理学者》を読み解く~モデルは誰?】 豊田市美術館

フェルメール展画像 001
ヨハネス・フェルメール《地理学者》1669 年
油彩・キャンヴァス 53,0 x 46,6 cm シュテーデル美術館蔵


《地理学者》
画家としての円熟期を迎えた37歳頃の作品で、数少ないフェルメール作品の中でも、
男性単身像を描かれているのは、この作品と1年前に描かれた《天文学者》(パリ、ルーヴル美術館)が
2点現存するだけです。


【《地理学者》のモデルは誰?】
作品数が少ないこともあり、フェルメールの研究者やファンには
描かれた人物が誰なのか、というのは大きな関心事です。

諸説ありますが、有力視されているのは顕微鏡を発明したことで有名な
アンソニー・ファン・レーウェンフックです。

古くからの知人で、画家の死後、フェルメール家の管財人になったことがわかっています。
フェルメールは、カメラの元祖ともいえるカメラ・オブスクラを利用して作品を描いたと言われていますが、
その存在を教えたのは彼だとも言われています。

ただ、モデルの特徴を描写した肖像画ではないため、
《真珠の耳飾りの少女》など他の絵と同様に真相は不明です。


【“ 大航海時代”、未知への憧れ】
フェルメールの作品には、大航海時代に隆盛を極めたオランダを
象徴するような地図や地球儀などのモチーフがちりばめられています。

《地理学者》では、右上にヨーロッパの海図があります。
また、地図のほかにもコンパス、地球儀、直角定規などの小物が緻密に描かれていますが、
一対の作品のようにも思われる《天文学者》(パリ、ルーヴル美術館)にも天体儀、
星座の早見表、天体観測儀などがあり、こうしたことからフェルメールが
最新の科学への憧憬を抱いていた、という人もいます。

また、当時のオランダには最新の地図情報が集積され、
世界への情報の発信基地となっていました。

フェルメールも日本をはじめとする世界に大きな関心を持っていたと考えられます。
「書斎の学者像」という伝統的な主題と航海国オランダの運命を結びつけて描かれた
《地理学者》は、17 世紀オランダを象徴する作品といえるでしょう。


フェルメール展画像 006
ピーテル・ヤンセンス・エーリンハ
《画家と読みものをする女性、掃除をする召使のいる室内》1665-70 年頃
油彩・キャンヴァス 82,0 x 99,0 cm シュテーデル美術館蔵


【オランダで流行した日本風ファッション】
「地理学者」が身にまとうのは、フェルメールの代名詞ともいえる「青色」のガウン。
この着心地がよさそうな衣装は「ヤポンス・ロックJaponscherock(= 日本の着物)」と呼ばれ、
17-8 世紀のオランダの富裕層や知識層の間で大流行しました。

徳川将軍の下賜品もあったとされる日本の着物は、異国趣味をかきたてる貴重品でした。
このため入手しやすい模造品がオランダ国内やインドで作られるようになります。

アメリカでカリフォルニア・ロールが生まれたように、日本からもたらされた着物は、
ゆったりとした西洋版の着物として発展し、
裕福でおしゃれなオランダ人の必需品となっていったのです。


【17世紀の地理学者の仕事道具】
地理学者の学術分野、とりわけ正確な地図や海図は、
船乗りの国オランダおよびその海上貿易にとって極めて重要でした。

そのため、17世紀のアムステルダムは地図と地球儀の重要な生産地となっていました。

美しく仕上げられたこれらのアイテムは、実践的な目的以外に、
やがて知識のシンボルとしてインテリアとされるようになりました。

コンパスは、地図の上の2つのポイントを確認し、計算し、
書き記すために使われる地理学者の仕事道具で、
フェルメールは地理学者が仕事を中断しているように見せることで、
インスピレーションの瞬間を感じさせるような人物表現をしているのです。

またフェルメール《地理学者》に描かれた窓には、距離を測定するために使われていた
“ ヤコブの杖” あるは“ クロス・スタッフ”“ 天文棒” と呼ばれる十字型の尺度計が
描かれていることを指摘する研究者もいます。

今回の展覧会では、こうした当時の地理学者の仕事道具が参考出品されます。


【光はいつも左の窓から】
フェルメールのほとんどの作品は左から光が広がる構図になっています。
《地理学者》も同様で、この光の演出について研究を重ねる専門家もいます。

本作で特徴的なのは光と影、地理学者が手にするコンパスがつくる鋭角。
どんな寓意が隠されているのか、想像してみてはいかがでしょうか?



フェルメール展画像 003
ペーテル・パウル・ルーベンスとヤン・ブックホルスト
《竪琴を弾くダヴィデ王》 1616 年頃-40 年代後半
油彩・板 84,0 x 68,0 cm シュテーデル美術館蔵


【データ】
■ 会  場 : 豊田市美術館(〒471-0034 愛知県豊田市小坂本町8-5-1)

■ 会  期 : 2011 年6 月11 日(土)~ 8 月28 日(日) (会期71 日間)
10 時~ 17 時30 分(入場は17時まで)
月曜休館 ただし7 月18 日、8 月15、22 日は開館

「豊田市美術館 公式サイト」

「中京テレビ フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展 専用公式サイト」



☆ 『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』に関する記事を連載でUPいたします。
  次回は、6/5(日)の予定です。

■ 画像、文章の転用はお控えください。


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フェルメール《地理学者》【展覧会趣旨】 豊田市美術館 展覧会ニュース

フェルメール展画像 001
ヨハネス・フェルメール《地理学者》1669 年
油彩・キャンヴァス 53,0 x 46,6 cm シュテーデル美術館蔵



《趣旨》
愛知県・豊田市美術館で『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』が
豊田市制60周年記念事業として開催されます。

ヨハネス・フェルメールは、東京で90万人以上の
観客動員の実績があるほどの人気の画家ですが、
その作品数は世界にわずか30数点しか確認されていません。

本展では、その巨匠フェルメールの円熟期の傑作《地理学者》を中心に
レンブラント、ルーベンス、ブリューゲルといった
同時代を代表する画家たちの名画95点をご紹介します。

そのうちの90点は日本初公開で、ドイツの名門シュテーデル美術館の
改装工事に伴って実現いたしました。

大航海時代のオランダ・フランドルの黄金期の
世界的コレクションの魅力を堪能いただければと思います。


《ヨハネス・フェルメール》
フェルメールは、1995-96 年にワシントンとハーグで開催された
「ヨハネス・フェルメール」展が開催されて以来、
急速に世界が注目するようになった画家です。

日本では2000 年に大阪市美術館で開催された
「フェルメールとその時代展」で約60 万人を集め、
人気が一気にブレーク、2009 年に東京都美術館で開催された
「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」では93万人を越えました。

フェルメールは1632年、オランダ南部の小都市デルフトに生まれ、
この地で43年の生涯を送ったとされますが、その記録はあまりありません。

描いた作品として確認されている数は32 点とも36 点ともいわれ、
2004 年に新たにフェルメールの作品とした認定されたものが現れ、
諸説ありますが、その短い生涯でわずか50 作程度しか描かなかったとされています。


フェルメール展画像 007
ルーカス・ファン・ファルケンボルヒ
《凍ったスヘルデ川とアントワープの景観》 1593年
油彩・板  42,2 x 63,0 cm シュテーデル美術館蔵



《関連イベント》
◎ 講演会(定員172 名) (予定)
6 月11 日(土)14:00 ~
「フェルメールの魅力とオランダ・フランドル美術の伝統」
木島俊介(共立女子大学名誉教授)

◎学芸員によるスライド・トーク (予定)
6月25日(土)、7 月2 日(土)、16 日(土) 
いずれも14:00 ~(各回定員172 名) 

◎恋みくじ を実施 (予定)
6月11 日(土)〜17日(金)


【データ】
■ 会  場 : 豊田市美術館(〒471-0034 愛知県豊田市小坂本町8-5-1)

美術館までのアクセス
◎ 名古屋駅より名鉄豊田市駅まで
地下鉄東山線伏見駅乗り換え、地下鉄鶴舞線豊田市行き終点下車
◎名鉄豊田市駅または愛知環状鉄道新豊田駅より
徒歩15分
◎自動車利用の場合:
東名高速豊田IC より約10 分 東海環状自動車道松平IC より約15 分

■ 会  期 : 2011 年6 月11 日(土)~ 8 月28 日(日) (会期71 日間)
10 時~ 17 時30 分(入場は17時まで)
月曜休館 ただし7 月18 日、8 月15、22 日は開館

「豊田市美術館 公式サイト」

「中京テレビ フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展 専用公式サイト」



フェルメール展画像 002
レンブラント・ファン・レイン
《サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ》 1630-31 年頃
油彩・板(オーク材) 62,0 x 50,1 cm シュテーデル美術館蔵



☆ 『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』に関する記事を連載でUPいたします。
  次回は、5/29(日)の予定です。



■画像の転用はお控えください。


関連記事

論文 大島徹也[ジャクソン・ポロック―オールオーヴァーのポード絵画の成立過程] 3,4

愛知県美術館ポロック展
開催予告ポスター

「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」

2011年11月11日(金)-2012年01月22日(日) 愛知県美術館
2012年02月10日(金)-2012年05月06日(日) 東京国立近代美術館(巡回)

企画者: 愛知県美術館 大島徹也学芸員


■ 最新情報 7月25日公開
  「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 公式ウェブサイト




大島徹也
「ジャクソン・ポロック――オールオーヴァーのポード絵画の成立過程」
『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)、23-50頁。


6/07: 「ポーリングとオールオーヴァーネス」 23-25頁 (リンク)
6/07: 「ポーリングの技法の影響源」 25-30頁  (リンク)
6/14: 「ポーリングの技法の展開」 30-35頁
6/14: 「オールオーヴァーな様式の影響源」 35-39頁
6/21: 「オールオーヴァーな様式の展開」 39-43 (リンク)
6/21: 「オールオーヴァーのポード絵画の成立」 44-46頁 (リンク)

■ 6セクション構成
  上記日 3記事分載(記事初公開日) 


【ポーリングの技法の展開】 30-35頁

 アメリカ先住民の砂絵からはミディアムと交感するかのようなその直接的な扱いを、シケイロスからは新しい技法やミディアムに対する積極的な実験精神を、そしてシュルレアリスムからは無意識の創造力を利用するやり方を学んだポロックは、それらを吸収して自らのポーリングに着手する。ポロックのカタログ・レゾネの編者フランシス・V・オコナーによれば、ポロック自身の制作における最初のポーリングは、1942年頃に描かれた《男性と女性》(図6)に見られる[30]。この作品では左上コーナー(図7)や、画面中央の三つのダイヤモンド形の右下あたりで、黒い塗料がいくらか流し込まれている。1942年は、ポロックの画歴において一つの節目となった重要な年である。その年ポロックは、絵画については《男性と女性》も含めてわずか三作しか描いておらず、点数こそ少ないものの、それらの新作をもってアメリカ現代美術界の第一線へと参入することになった。そこではポロックはピカソ、ミロ、マティスといったヨーロッパの現代の巨匠の仕事を積極的に吸収していたが、その傍らで、特にこの《男性と女性》においては、ポーリングも同時に行っているのは注目に値する。同作品では、ポーリングが生み出すダイナミズムによって、力強くもいささか静的なその絵の構図にさらなる活気が吹き込まれている。しかしながら、そのポーリングは画面全体に対する割合からすると控えめなもので、その時点では、ポロックのその技法の探求は非常に試行的なものであることが窺われる。さらに言えば、《男性と女性》では、ポロックはキュビスム的空間を基盤としてすでに実質的に出来上がった画面の上に二、三箇所塗料を注いでいるだけで、ポーリングはその絵の空間構造にまでは関わることなく、単に画面に新奇な表面効果を付与するに留まっている。
 その後1943年には、ポロックのポーリングは大きな発展を見せる。この年ポロックは《ポーリングのある構成I》、《ポーリングのある構成II》(図8)、《水鳥》という三作を描いているが、そこでは、前年の《男性と女性》においては局所的に行われていただけのポーリングが、まだ非常にまばらではあるものの、画面上で広い範囲にわたって展開されている。藤枝晃雄氏はポロックの1943年のポーリングの探求を、《ポーリングのある構成II》を取り上げて、ホフマンの《幻想曲》(1944年頃、図9)との比較において、次のように鋭く分析している。「色面を区切る規定的な線は方法的には同じだが、それが生み出す画面全体の空間は異なっている。ホフマンの作品では線によって区切られた部分が前景的な領域となって他から強く浮き上がり、画面は静的、求心的になっている。ポロックの線は、画面の内部を規定すると同時に、外縁に、外部に広がり動的、遠心的になっている。このことはホフマンよりも流動的な線の性質に基づいているが、それにのみ負っているのでもない。ポロックは色面を作るために青い線を引いたが、この青は部分的な線としてだけではなく画面の上部や側面に面としても施されている。画面はこの青の動きによってホフマンよりも前景の領域の出現を意図的に抑制し横への広がりをもたらしているのである。……ポロックの《ポーリングによる構成II》は、不充分であるがオートマティスムがいかなるものとなるのか不明の空間に向けて用いられている。彼が突如としてイメージを抹消したのは、そのための一試行にほかならない。ポロックはここでオートマティスムを異なった絵画空間上の位相に連れ出そうとした」(強調原文)[31]。このように1943年のポロックのポーリングには、それを単なる新奇な表面効果の次元を超えて新しい空間構造へと繋げていこうとする画家の意思を見て取ることができる。
 翌1944年には、ポロックはポーリングの技法からいったん遠ざかる。1938年頃からポロックはピカソの芸術と深く関わり出し、それは最後まで明に暗に継続したが、特に1944年はピカソの存在が彼に逃れがたく重くのしかかっていたのであろうか、年ごとに見ると、全体としてその年はピカソ的な形体表現および空間表現が特に顕著である。クラズナーは、ポロックのピカソに対する関係について、次のような興味深いエピソードを語っている。


 彼[ポロック]がピカソに敬服し、と同時にピカソと張り合い、ピカソを超えて行こうと欲していたことは  疑いありません。私たちがイースト・ハンプトンに住む前ですら、こんなことがありました。ある時何かが落  ちる音が聞こえました。そしてジャクソンが大声を上げるのが聞こえたのです。「くそっ、あいつが全部やっ  ちまった!」。私は何が起こったのか見に行きました。すると、ジャクソンはどこかを見つめながら座ってい  ました。床には、彼が投げつけたピカソの画集がありました。[32]


 「イースト・ハンプトンに住む前」ということは、上のエピソードは1945年11月以前の出来事ということになるが、それが正確にいつなのかははっきりしない。しかしそういった状況は、ちょうど1944年のポロックの仕事によくあてはまる。そのような中、その年ポロックは《無題》(図10)などのいくつかのドローイングや水彩画で、飛沫的な効果をもたらすスパタリングを行ってはいるが、その前年に見せたようなポーリングへのまとまった深い関心は、とりわけ油彩画においては影を潜めている。そのようなところに、ポロックはポーリングの技法に未開拓の新しい可能性を感じていながらも、彼のその探求は決して一直線にスムーズなものではなく、それどころか、ためらいがちないし懐疑的で困難なものであったことが窺われる。それでもポロックは、1945年には《月の器》(図11)や《困惑の女王》などの油彩画で、再びまばらながらも画面上広い範囲にわたってポーリングを試みる。そしてその翌年、1947-50年のオールオーヴァーのポード絵画の前駆的作品である《黄色のコラージュ》(図12)と《自由造形》(図13)の二作が生み出されることになる。
 1946年の《黄色のコラージュ》と《自由造形》ではともに、かつてなくポーリングが広範かつ密に施されている。しかしながら、いくつかの点で、それら二作は成熟期のオールオーヴァーのポード絵画とは一線を画されるべきものである[33]。第一の点は、作品のサイズである。1947年のオールオーヴァーのポード絵画のほとんどが、少なくとも縦横どちらかの辺の長さが1メートル程度、あるいはそれ以上になるのに対し、《黄色のコラージュ》は61.5×48.7センチ、《自由造形》は48.9×35.5センチと、ともにかなりの小品である。また、《黄色のコラージュ》では、黒のポーリング自体は「オールオーヴァー」と言ってよいほどに展開されているが、いくつかの色面や色斑やコラージュされた新聞紙などを含んだ下層がはっきりと表面に見えており、画面全体としては中心-部分、および図-地や前景-後景といった旧套的な構造を払拭し切れていない。他方で、《自由造形》は赤茶色の下地が塗られた後、白と黒のポーリングのみで画面が構成されているが、成熟期のオールオーヴァーのポード絵画に見られる前景と後景が錯綜的に一体化したような構造はなく、絵は下から順に赤茶、黒、白、黒の四層にほとんど難なく分けることができる。これと同時に、最上層の黒のポーリングには強い求心性が残っており、そのため、全体としてその黒のポーリングが前景として他から強く浮き立っている。こうして1946年の《黄色のコラージュ》、《自由造形》はともに、「オールオーヴァーのポード絵画」と呼ぶには未成熟なものである。しかし、来たるブレークスルーを予感させる存在で、その前駆的作品としてポロックの画歴において非常に重要な位置を占めている。とりわけ《自由造形》は、かねてから探求してきたポーリングを画面上でそれのみ全的に展開したらどのような結果が得られるのかを、まずは手頃なサイズのキャンバス上で試してみたというところのものであろう。こういった作品で当たりを付けたのち、1947年、ポロックは一連のオールオーヴァーのポード絵画の制作へと乗り出していくのである。



【オールオーヴァーな様式の影響源】 35-39頁

 ポロックのオールオーヴァーネスについても、さまざまな者によってさまざまな類例、およびポロックへのその影響が議論されてきた。たとえばマーク・トビーは、彼が「ホワイト・ライティング」と呼ぶ一連の絵画において、1940年代はじめまでにオールオーヴァーネスに到達している(図14)。クレメント・グリーンバーグは、トビーの仕事について次のように述べている。「マーク・トビーが『オールオーヴァな』――すなわち、壁紙模様の要素のように一様に繰り返され等間隔に配置されたモチーフで端から端までを満たし、それゆえ、絵画をその枠を越えて無限に反復できるように見える――デザインのイーゼル画を最初に制作し、それで最初に成功を収めた者であるというのは、年代的には事実かもしれない」。しかしながら、グリーンバーグは次のように続ける。「トビーは1944年にニューヨークで彼の『ホワイト・ライティング』を初めて発表した。ポロックは1946年の晩夏に彼自身の最初の『オールオーヴァな』絵画を制作したが、しかしトビーのホワイト・ライティングは見てはいなかった」[34]。このグリーンバーグの否定に反し、トビーの画商マリアン・ウィラードによれば、トビーが1944年にニューヨークの彼女の画廊で《夏の漂流》(図14)などのホワイト・ライティングを発表したその時、ポロックはそれを見に来ていたという[35]。ウィラードからその証言を得たエリザ・E・ラスボーンは、そうして次のように述べる。「芸術に対する彼ら[ポロックとトビー]のアプローチは根本的に異なっているものの、ポロックはトビーの仕事を見たことで、自分自身のオールオーヴァーな抽象への後押しを受けたのはほぼ疑いない」[36]。
 他方でグリーンバーグは、上に引用したトビーについてのくだりに続けて、もう一人の興味深い画家(図15)とポロックの関係について肯定的に言及している。「しかしながら遡ること1944年、ポロックはペギー・グッゲンハイムの画廊で展示された『プリミティヴ』画家のジャネット・ソーベル(彼女はブルックリンに住む一主婦であったし、今でもそうである)による一、二点の奇妙な絵画には注目していた。ポロック(そして私自身)は、幾分密かにこれらの絵画を賞賛した。そこには小さな図式的な顔のドローイングが描かれていたが、それは、際立って暖かい半透明な色彩のまだらな広がりの上や下にある細い黒の線による、目の詰んだ網目模様の中で消えかかっていた。その効果――そう、トビーの展覧会はその数ヶ月後に行われたのであるから、それは私がそれまでに見た最初の真に『オールオーヴァな』ものだったのである――は奇妙に魅力的であった。後にポロックは、これらの絵画が彼に一つの印象を与えていたことを告白した」[37]。しかしながら、その印象が具体的にいかなるものだったのか、残念ながらグリーンバーグは語っていない。
 あるいは、バーニス・ローズはアンドレ・マッソンの版画の影響を指摘する。1944年から1945年にかけてポロックは、ニューヨークのスタンリー・ウィリアム・ヘイターの版画工房「アトリエ17」で版画制作に従事し、《無題》(1944-45年頃、図16)などの一連の作品を制作している。この工房には第二次世界大戦の戦火を逃れてフランスからアメリカに移ってきたマッソンも出入りしており、ローズによれば、マッソンはそこで1941年に《恍惚の(陵辱されて)》(図17)というドライポイントを制作している。ローズはマッソンの《恍惚の》とポロックの《無題》を取り上げて、次のように主張している。「このマッソンのより抽象的でオートマティックな線的構成とポロックの1945年の版画のオールオーヴァーな構成の類似点はあまりに密接で、偶然のものではありえない。おそらくポロックはこの版画を見る機会があったと思われる。マッソンはヘイターの工房で1945年まで制作していたので、たぶんヘイターがオートマティックな技法の例として、ポロックにその版画を見せたことがあったのだろう。……《恍惚の》は、その線的な構成を通じてマッソンとポロックを結び付けるものであり、マッソンはポロックにオールオーヴァーな構成への重要な鍵を与えたのである」[38]。ローズはさらに、ポロックのオールオーヴァーな様式の発展に対するミロの影響も指摘する。ミロは1945年に、ニューヨークのピエール・マティス画廊で彼の〈星座〉シリーズ(1940-41年)を展示していた。ローズはそのシリーズの中の一点である《女流詩人》(1940年、図18)を取り上げて、「その形状はもちろんだが、オールオーヴァーな構成や湾曲した線的リズムは、ポロックの1945年の版画に対して直接的な刺激を与えた」[39]と述べている。それでもローズの見解では、より重要なのはやはりマッソンの方であり、彼の《恍惚の》こそが、「幾何学的なミロのオールオーヴァーなパターンを、連続的で表現主義的な線的構成に変容させる」作用をポロックに対して果たしたのだとしている[40]。しかしながら、上に言及したマッソンの《恍惚の》については、その一エディションを所蔵しているニューヨーク近代美術館は、その作品の制作年を「1946年頃」に(また、タイトルを《誘拐》に)修正している[41]。この新しい制作年が正しいのであれば、もとよりポロックの《無題》に対するマッソンの《恍惚の》の影響はありえないことになる。
 これに対しバーバラ・ローズは、あくまでミロの影響を重視する。バーバラ・ローズはバーニス・ローズと同じく〈星座〉シリーズに着目し、そのシリーズ全体について、次のように述べている。「《星座》シリーズはオール・オーヴァー・ペインティングの急進的で新しい解釈を提示した。それを実際に完全に理解できたのはポロック一人であった。事実、それによってポロックは己の宇宙的なヴィジョンを爆発させるためのキーを手に入れたのである。《星座》においてはミロの線による編目組織は色斑と交差し、透明の地の上を漂うように空間に吊[る]されている。多くの点において、特に色の淡彩によって暗示された広漠とした空間も含めて、《星座》シリーズはポロックに固定された視点に基づくイメージから脱却する道を示した。……《星座》シリーズは構成の秩序の新しい解釈を提示し、それはポロックに『オール・オーヴァーな』ドリッピングによる絵画を生み出させた」[42]。ミロはピカソと並んで、その頃ポロックが最も敬服していた芸術家であった。ミロの〈星座〉シリーズの絵画世界にポロックが感銘を受けたことは想像に難くない。
 その他にも影響関係が考えられうる類例はいくつかあろう。しかしながら下に考察するように、そもそもポロックのオールオーヴァーネスは、トビーであれソーベルであれマッソンであれミロであれ、あるいは他の何であれ、そのような外的な要因によるものであるよりはむしろ、ポロック自身が画家として本来的に備えていた傾向から発現してきたものである。そしてそれは、ポロックが自分の抱えていたある重要な問題と向き合い、それに対して道を開こうとする中で、ミロらの仕事が触媒のようなものとして一部作用したかもしれないにせよ、本質において内的に発展していったように思われる。




[註]

[30] O’Connor, “The Genesis of Jackson Pollock,” 215-16; Francis V. O’Connor, “An Undeserved Pulitzer for a Pop Biography?,” New York Times, 12 May 1991.

[31] 藤枝『ジャクソン・ポロック』、65頁、67頁。

[32] Lee Krasner Pollock, “An Interview with Lee Krasner Pollock by B. H. Friedman,” in Jackson Pollock: Black and White, exh. cat. (New York: Marlborough-Gerson Gallery, 1969), 7.

[33] 1948年1月のベティ・パーソンズ画廊での個展でポロックのオールオーヴァーのポード絵画が初めてまとまって公開された時にも、それら二作はそこに含まれなかった。

[34] Clement Greenberg, “‘American-Type’ Painting” (1955/1958), in Art and Culture: Critical Essays (Boston: Beacon Press, 1961), 217-18. 邦訳:クレメント・グリーンバーグ、大島徹也訳「『アメリカ型』絵画」『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、上田高弘、大島徹也、川田都樹子、高藤武允訳、勁草書房、2005/2010年(第1版第6刷)、124頁。

[35] Eliza E. Rathbone, Mark Tobey: City Paintings, exh. cat. (Washington, D.C.: National Gallery of Art, 1984), 73, n. 17. ポロックとトビーの関係の詳細については、次の文献を参照。Judith S. Kays, “Mark Tobey and Jackson Pollock: Setting the Record Straight,” in Mark Tobey, ed. Kosme de Barañano and Matthias Bärmann, exh. cat. (Madrid: Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía,1997), 91-114.

[36] Rathbone, Mark Tobey, 73, n. 17.

[37] Greenberg, “‘American-Type’ Painting,” 218. グリーンバーグ「『アメリカ型』絵画」、124-25頁。なお、ジュディス・S・ケイズによれば、この引用文中の「ペギー・グッゲンハイムの画廊」は誤りである。1944年にソーベルは、ピューマ画廊での個展で《音楽》(図15)を含むいくつかの作品を、モーティマー・ブラント画廊でのグループ展「アメリカの抽象美術とシュルレアリスム美術」で《音楽》一点を展示しているが、同年にペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊で作品を展示した記録は見当たらない。また、「トビーの展覧会はその数ヶ月後に行われた」というのも誤りである。グリーンバーグの言うトビーの個展は、1944年4月4日-29日にウィラード画廊で開催された。一方、ソーベルのピューマ画廊での個展が開催されたのは1944年4月24日-5月14日、モーティマー・ブラント画廊での「アメリカの抽象美術とシュルレアリスム美術」展が開催されたのは1944年11月29日-12月30日である。Kays, “Mark Tobey and Jackson Pollock,” 99-101.

[38] Bernice Rose, Jackson Pollock: Works on Paper (New York: The Museum of Modern Art, 1969), 18.

[39] Rose, Works on Paper, 19.

[40] Rose, Works on Paper, 19.

[41] http://www.moma.org/collection/object.php?object_id=105996 (2011年3月17日アクセス)

[42] バーバラ・ローズ、中村尚明訳「ミロとニューヨーク・スクール」『生誕100年記念 ミロ展 ピエール・マティス・コレクション』横浜美術館、1992年、37頁。 See also William Rubin, “Jackson Pollock and the Modern Tradition, Part III,” Artforum, vol. 5, no. 8 (April 1967): 26-27.


[図版キャプション]


(図6) ジャクソン・ポロック 《男性と女性》 1942年頃 油絵具、キャンバス 184.4×124.5 cm Philadelphia Museum of Art

(図7) ポロック 《男性と女性》(部分)

(図8) ジャクソン・ポロック 《ポーリングのある構成II》 1943年 油絵具・エナメル塗料、キャンバス 63.5×56.2 cm Hirshhorn Museum and Sculpture Garden, Washington, D.C.

(図9) ハンス・ホフマン 《幻想曲》 1944年頃 油絵具・デュコ・カゼイン膠、キャンバス 130.8×93 cm University Art Museum, University of California, Berkeley

(図10) ジャクソン・ポロック 《無題》 1944年 ブラッシュ・スパター・ペン・黒インク・色インク・スグラフィート、紙 47.6×61.9 cm

(図11) ジャクソン・ポロック 《月の器》 1945年頃 油絵具・エナメル塗料、コンポジションボード 84.8×44.4 cm The Museum of Fine Arts, Houston

(図12) ジャクソン・ポロック 《黄色のコラージュ》 1946年 油絵具・エナメル塗料・新聞紙コラージュ、メゾナイト 60.5×48.0 cm 富山県立近代美術館

(図13) ジャクソン・ポロック 《自由造形》 1946年 油絵具、キャンバス 48.9×35.5 cm The Museum of Modern Art, New York

(図14) マーク・トビー 《夏の漂流》 1942年 テンペラ 71.1×55.9 cm

(図15) ジャネット・ソーベル 《音楽》 1944年 デュコ、キャンバス 61.0×44.5 cm

(図16) ジャクソン・ポロック 《無題》 1944-45年頃 エングレーヴィング・ドライポイント

(図17) アンドレ・マッソン 《恍惚の(陵辱されて)》(《誘拐》) 1946年頃 ドライポイント

(図18) ジョアン・ミロ 《女流詩人》 1940年 グワッシュ・油絵具のウォッシュ、紙 38.1×45.7 cm




■ 6/21(火)公開 第5セクション「オールオーヴァーな様式の展開」 39-43頁に続きます。

■ 転載者(私)の判断によって(ブログ書式上の都合)上記論文中、
  一部『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)とは、
  異なる表記方法(書式が異なるだけです。)をしております。

1: フォント、フォント色
2: 註
3: (強調原文)の文字上の「、」(省きました。)
4: 文頭スペース エピソード文=「彼[ポロック]がピカソに敬服し…」

■ 上記論文中に「図」と記されていますが、当記事では図版の掲載は省きました。
『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)、23-50頁では、図版が掲載されております。

■ 上記論文は愛知県美術館及び筆者の許可を得て掲載しております。
  文章の転載はお控えください。



愛知県美術館 公式ブログ 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」
《「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」の企画者、大島学芸員による記事です。》

1/20 当ブログ 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 展覧会ニュース記事》
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論文 大島徹也[ジャクソン・ポロック―オールオーヴァーのポード絵画の成立過程] 1,2

愛知県美術館ポロック展
開催予告ポスター

「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」

2011年11月11日(金)-2012年01月22日(日) 愛知県美術館
2012年02月10日(金)-2012年05月06日(日) 東京国立近代美術館(巡回)

企画者: 愛知県美術館 大島徹也学芸員


■ 最新情報 7月25日公開
  「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 公式ウェブサイト




大島徹也
「ジャクソン・ポロック――オールオーヴァーのポード絵画の成立過程」
『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)、23-50頁。


6/07: 「ポーリングとオールオーヴァーネス」 23-25頁
6/07: 「ポーリングの技法の影響源」 25-30頁
6/14: 「ポーリングの技法の展開」 30-35頁(リンク)
6/14: 「オールオーヴァーな様式の影響源」 35-39頁(リンク)
6/21: 「オールオーヴァーな様式の展開」 39-43 (リンク)
6/21: 「オールオーヴァーのポード絵画の成立」 44-46頁 (リンク)

■ 6セクション構成
  上記日 3記事分載(記事初公開日) 


【ポーリングとオールオーヴァーネス】 23-25頁

 ジャクソン・ポロック(1912-56年)は1947年、「オールオーヴァーのポード絵画」(allover poured paintings)と呼ばれる一連の絵画の制作に着手する(図1)。その形式の革新的な構造や美術史上の画期的な意義については、これまでさまざまな機会に論じてきた[1]。よって本論では、「ポーリング」(pouring)と「オールオーヴァーネス」(alloverness)という二つの要素を軸に、ポロックが彼の画歴の中でオールオーヴァーのポード絵画を確立するに至るまでの過程を体系的に考察してみたい。
 「ポーリング」とは、床に広げた支持体に流動性の塗料を流し込んで(pour)描く技法のことを指す(図2)。かつてポロックのそのような技法は通常「ドリッピング」(dripping)と呼ばれたが、ドリッピングとは、正確には塗料を滴らす(drip)ことを意味する。この技法がもたらすのは点的な効果であるが、実際にポロックが描いた絵を見ると、多くの場合、そこに主として現れているのは線的な効果であって、点的な効果はむしろ副次的ないし付随的なものである。これは、決して瑣末にして皮相的な問題ではなく、実にポロック芸術の本質と関わる注意すべき問題である。かつて若き日のポロックは絵画や彫刻といった芸術のジャンルについて言及する中で、「ドローイングはすべてのエッセンスである」[2]と語ったことがあったが、その考えは成熟期のオールオーヴァーのポード絵画にも通底している。上に指摘したとおり、ポロックがオールオーヴァーのポード絵画でまず第一に追求したのは線的な表現であったが、それは逆の方向からより深い見方をすれば、ポーリングという技法によるある種のドローイング的なものをもって旧套的なドローイングの世界を克服的に脱し、そこにおいて新しい種類の絵画を達成しようとする困難な試みだったのである。
 他方、「オールオーヴァーネス」とは、画面上に中心-部分の関係を生み出すことなく、全体を均質に取り扱っているさまを指す。しかしながら、この用語についても注意が必要であり、次のような指摘がウィリアム・ルービンからなされている。「『オールオーヴァー』という用語は相対的なものである。……ポロックについて書く者がいかに頻繁に『オールオーヴァー』という用語を、まるで絵の構造が画面上どこでも文字通り同様であることを意味しているかのように使っていることか」(強調原文)[3]。ポロックの絵画がもし文字通りに均質なのであれば、それは、かつて彼の絵画を理解しない者たちから皮肉として言われた「壁紙」のごときものに堕してしまうであろう[4]。また、彼の絵画をさらに仔細に観察してみれば、しばしば彼のポーリングは余白を設ける形で枠の手前で内側に折り返していたり、また、同じ余白を設けるにしても、上端部ではより余白を多くし、下端部の方に絵の総体が落ち着くようにしたりしていることがある。それゆえポロックの絵画は、「オールオーヴァー」と一口に言えどもそれぞれ上下左右を持っており、たとえばモンドリアンの絵を天地逆にできないのと同様に、ポロックの絵もそうすることはできないのである。
 ポロックの画歴において「ポーリング」と「オールオーヴァーネス」という二つの要素は時を違えて別々に現れるが、紆余曲折を経てやがて一つに融合する。そして、そこにおいて彼の革命的な芸術が生まれる。その過程を、これから系統立てて追っていこう。



【ポーリングの技法の影響源】 25-30頁

 ポロックのポーリングは、主に次の三つにその源泉を求めることができる。一つ目はアメリカ先住民、とりわけナバホ族の砂絵である。ナバホの砂絵師は地面に腰を下ろし、手に取った色砂を指の先から少しずつ流し落として地面に絵を描いていく[5]。ポロックの伝記の作者ジェフリー・ポッターによれば、アメリカ西部に生まれ育ったポロックは少年時代、兄チャールズに連れられて、先住民の居留地で砂絵の制作を何度か見たことがあるという。その時の経験は将来に影響を及ぼすような強い印象をポロックに与えただろうと、ポッターは述べている[6]。この伝えられている初期体験の重要性もさることながら、ポロックが先住民の砂絵制作に触れ得たより近い機会としては、1941年にニューヨーク近代美術館で開催された「合衆国のインディアン美術」展があった。この展覧会では会期中のある期間、館内でナバホ族のシャーマンによる砂絵の実演が行われていた(図3)[7]。ポロックはこの展覧会で、その実演を見たと言われている。
 1947年に『ポシビリティーズ』誌に発表した自らの制作方法についての有名なステートメント「マイ・ペインティング」の中で、ポロックは次のように述べている。「床の上では、私はより気楽でいられる。より絵に近くに、より絵の一部であるように感じられるのである。なぜなら、このようにすれば、その回りを歩き、四方から制作して、文字通り絵の中にいられるからだ。これは西部のインディアンの砂絵師の方法に似ている」(強調原文)[8]。アメリカ先住民の砂絵と自らの絵画の制作方法の共通性について、ここでポロックは、床の上で絵の中に入り込んで制作する点に言及しているが、砂絵師が手に取った色砂を流し落として描く点にも我々は同様に注目せねばならない。しかし、ポロックが塗料を流し込むのが、砂絵師が色砂を流し落とすのに似ている、と指摘するのは簡単なことである。アメリカ先住民の砂絵は、そのような単純なことではなく、より深いレベルでポロックのポーリングに影響を与えている。それは、ミディアムと交感するかのようなその直接的な扱いである。ポロックは支持体をイーゼルに立て掛けるのをやめ、床に広げた支持体の中に入り込むだけでなく、さらに、絵筆で塗料を支持体に擦り付けるのをやめ、塗料と支持体の間に絵筆という物が介入するのを排すことで、より直接的にミディアムを取り扱おうとしたのであり、そこにはアメリカ先住民の砂絵師の例が少なからず作用していたと思われる。


 ポロックのポーリングの二つ目の源泉は、メキシコの壁画家ダヴィッド・アルファロ・シケイロスの「実験工房」である。シケイロスが1936年にニューヨークに開設したこの工房は、正式名称を「美術の現代的技法研究所」と言い、ポロックはその年、兄サンフォードとともにこれに参加している。翌年早くにシケイロスがニューヨークを離れると、工房はやがて解体してしまうが、そこでは壁画制作のための、また共産主義のデモ用の旗や山車のための新しい技法やミディアムなどの積極的な研究がなされていた。
 シケイロスの工房でのさまざまな実験の中でも、彼らがスプレーガンやエアブラシを使って合成塗料やラッカーを吹き付けていたことはよく知られているが、さらに、工房でポロックとともに働いていたアクセル・ホーンによれば、彼らはラッカーを絵の表面に流し込んだり(pour)、滴らしたり(drip)、撥ね掛けたり(spatter)、投げつけたり(hurl)していたという[9]。この経験がポロックのポーリングに影響を与えたことは疑いない[10]。しかし、その指摘も再び、正しいながらも単純に過ぎるものである。後で考察するように、ポロックが芸術家として自己の絵画制作においてポーリングを始めるのは1942年のことであり、1936年のシケイロスの工房でのポーリングの体験からは六年の隔たりがある。その体験が先例としてポロックの頭にあったことは間違いないとしても、より深い問題として、ポロックはシケイロスの工房で、新しい技法やミディアムに対する積極的な実験精神こそを学び取っていたのだった[11]。
 ポーリングに関してポロックは、シケイロスの実験工房でもう一つ重要な問題を学んでいる。それは、「統御された偶然」である。再びホーンによれば、彼らはいったん塗布したラッカーを剥がした時に生じる無限に多様な偶然的効果に着目し、シケイロスはそこから「統御された偶然」の理論とシステムを作り出した[12]。この「統御された偶然」というのは、ポロックのポーリングにも大いに通じている。ポロックは1950年に次のように述べている。「経験からして――塗料の流れをコントロールすることは可能であるように思われます。大部分はね。私は用いません――偶然は用いません――なぜなら、私は偶然を否定しているからです」[13]。ここで、「私は偶然を否定している」というポロックの言葉をそのまま文字通りに受け取るべきではないだろう。その言葉はすなわち、ポロックは流動性の塗料を滴らし、注ぎ、撒き散らすことによって、絵画制作に偶然性を持ち込んでいきはしたが、それでも塗料の流れに対するコントロールを確かに保とうとすることで、その偶然の行方をきちんと手の内に引き込んでいたということを意味している[14]。


 ポロックのポーリングはさらに、シュルレアリスムのオートマティスムと深い関係を持っている。実にポロックのポーリングは、彼がシュルレアリスムのオートマティスムのコンテクストに触れた時、彼の中でかつての砂絵やシケイロスの実験工房の体験も一緒に呼び起こされつつ、それらが内的に統合されて彼の仕事に発現してきたものであった。アンドレ・ブルトンは1924年に発表した『シュルレアリスム宣言』において、シュルレアリスムを次のように定義している。「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」[15]。このように、シュルレアリスムは無意識が持つ創造力を見出し、それを芸術制作に利用した[16]。一方ポロックは、1947年の「マイ・ペインティング」の中で次のように述べている。「絵の中にいる時、私は自分が何をしているのか気づいていない」(強調原文)[17]。これは、ポロックの絵画制作において無意識が作用していたことを表している。実にポロックは、「マイ・ペインティング」のドラフトでは、次のようにはっきりと書いていた。「私の絵画の源泉は無意識である」[18]。また1944年には、「芸術の源泉は無意識であるという彼ら[当時のヨーロッパの芸術家たち]の考えには、特に感銘を受けている」[19]とも述べていた。
 ポロックは芸術創造における無意識の機能について論じているジョン・グレアムの論文「プリミティヴ・アートとピカソ」[20]に深い関心を抱いていた。また、「私たちは皆、フロイトに影響を受けていると思います。私は長い間ユングの徒でした」[21]と述べていることなどから、フロイトやユングの理論について大なり小なりの知識を持っていたと思われる。そのような中、無意識ということに関してポロックのポーリングの実践に直接的な影響を及ぼしたのは、シュルレアリスムのオートマティスムであった。ポロックは1942年、シュルレアリストたちと親交のあったロバート・マザウェルから、シュルレアリスムのオートマティスムの原理について詳しく学んでいる[22]。ポロックはリー・クラズナーおよびウィリアム・バジオテスとともに、それ以前からその原理についてある程度知っていたが[23]、いずれにせよポロックは、無意識の創造力を実際に自らの絵画制作で発揮する手法について、シュルレアリスムのオートマティスムの原理からインスピレーションを得たのである。しかしポロックは、無意識に沈潜するだけではそこで得られる真の絵画形成力は不十分であることも理解していた。かくしてポロックは無意識の力を意識的に絵画形成の方へと差し向け[24]、意識と無意識の妙なるやり取りの中で描画してゆくことになる。


 ポロックのポーリングの影響源については、その他具体的に、マックス・エルンストの「オシレーション」(oscillation、振動)やハンス・ホフマンのポーリングがよく取りざたされる[25]。1942年、エルンストは缶の底に小さな穴を開けて紐で吊り、その缶に塗料を入れて、床に平らに置いたキャンバスの上で振り回し、缶から流れ落ちる塗料に軌跡を描かせた(図4)。シュルレアリスム/エルンスト研究の側、さらにはエルンスト本人などからは、オシレーションと呼ばれるこの技法がポロックのポーリングに影響を与えたという主張がしばしばなされてきたが、これに対してルービンは次のように反論している。「問題となっている絵を一目見さえすれば、[塗料缶の]旋回によって決定されるあらかじめ機械的に運命づけられたそのパターンが、その五年後のポロックのポード絵画の曲がりくねり、気ままに即興的な構造とはまったく共通性がないということがはっきりする」[26]。
 またホフマンについては、1940年という制作年の入った《泉》(図5)や、1942年という制作年の入った《風》といった作品があり、そこではポーリングが大々的に行われている。しかしながら、ホフマンによるそれらの制作年については、シンシア・グッドマンから疑義が呈されている。グッドマンによれば、1943年半ばにシドニー・ジャニスが「アメリカの抽象美術とシュルレアリスム美術」展の出品作選定のためにホフマンのスタジオを訪れた時、同展に出すべきものはジャニスにとって一点もなかった。そのおよそ半年後、ホフマンは同展出品に値する絵画を描いたが、それとて《泉》や《風》に比べれば、キュビスムの顕著な影響下にまだ具象性を強く留めたものだった。こうしてグッドマンは、《泉》の制作年を1944-45年、《風》の制作年を1944年頃に修正している[27]。とすれば、ポーリングに関してホフマンからポロックへの影響はなかったどころか、むしろホフマンの方こそポロックに影響を受けていたということになろう。
 その他にもポロックのポーリングの類例は多数あり、さまざまな者によってさまざまな物がポロックのポーリングに影響を与えた先行例として指摘されてきているが[28]、この手の議論には切りがない。そのような状況にあっては、最終的に問題とされるべきは、ルービンも指摘しているように、誰がポーリングを先に始めたのかではなく、その技法をもってそれぞれの作家がなしたこと、その芸術的価値の大小の方であろう[29]。エルンストのオシレーションもホフマンのポーリングも、ともに図-地、前景-後景、中心-部分等の観点において旧来の空間を抜け出ていない。それに対しポロックのポーリングは、やがてオールオーヴァーネスと融合する中で、そういった因襲的な構造を克服した新しい種類の絵画を創造することになったのである。




[註]

[1] Tetsuya Oshima, “Matisse’s Jazz / papiers découpés and Jackson Pollock,” in Ils ont regardé Matisse: Une réception abstraite, États-Unis / Europe, 1948-1968, ed. Éric de Chassey and Émilie Ovaere, exh. cat. (Le Cateau-Cambrésis, France: Musée départemental Matisse, 2009); 拙論「ポロックとデ・クーニング――そのライバル関係と相互影響」『愛知県美術館研究紀要』第15号(2009年3月)等を参照。

[2] Jackson Pollock to Stella May McClure, Sanford LeRoy Pollock, and Marvin Jay Pollock, 25 March 1933, in Jackson Pollock: A Catalogue Raisonné of Paintings, Drawings, and Other Works, ed. Francis Valentine O’Connor and Eugene Victor Thaw (New Haven and London: Yale University Press, 1978), 4:217, doc. 19.

[3] William Rubin, “Jackson Pollock and the Modern Tradition, Part I,” Artforum, vol. 5, no. 6 (February 1967): 19.

[4] See “A Life Round Table on Modern Art,” Life, vol. 25, no. 15 (11 October 1948): 62.

[5] ナバホの砂絵は本来、純粋な芸術作品ではなく、病を患った者の治癒のための儀式の一環としてシャーマンによって制作され、最後には跡形もなくすべて消されてしまう。

[6] Jeffrey Potter, “Jackson Pollock and Relationships,” North Atlantic Review, no. 10 (1998): 19.

[7] See “Art: Charley and the Grandson,” Time, vol. 37, no. 14 (7 April 1941): 68, 70.

[8] Jackson Pollock, “My Painting,” Possibilities, no. 1 (Winter 1947/48): 79.

[9] Axel Horn, “Jackson Pollock: The Hollow and the Bump,” Carleton Miscellany, vol. 7, no. 3 (Summer 1966): 86.

[10] ポロックが1937年頃に制作した《風景の中の人物像》では、ドリッピングないしスパタリング(spattering)が用いられている。

[11] たとえばポロックは、ポーリングを始め、それを発展させていく中で、自動車の車体塗装に用いられる「デュコ」というラッカーや、金属管等の塗装に用いられるアルミニウム塗料など、絵画用ではない塗料もしばしば用い、それぞれが持つ特性を巧みに絵画に取り込んでいった。

[12] Horn, “The Hollow and the Bump,” 86.

[13] Jackson Pollock, “An Interview with Jackson Pollock,” interview by William Wright (1950), in Jackson Pollock, by Francis V. O’Connor, exh. cat. (New York: The Museum of Modern Art, 1967), 80.

[14] ポロックにおける偶然性の問題、および、このあと言及する無意識の問題に関するより詳細な考察については、拙論「ジャクソン・ポロック――存在と生成」『絵画の制作学』藤枝晃雄、谷川渥、小澤基弘編、日本文教出版、2007年、307-10頁を参照。

[15] アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』巖谷國士訳、岩波書店、1992年、46頁。

[16] シュルレアリスムのオートマティスムにおける無意識と意識の問題については、次の文献を参照。副田一穂「〈夢の絵画〉から『絵画の殺害』へ――ジョアン・ミロとシュルレアリスム」『愛知県美術館研究紀要』第15号(2009年3月)、11-13頁。

[17] Pollock, “My Painting,” 79.

[18] O’Connor and Thaw, Catalogue Raisonné, 4:241, doc. 72.

[19] Jackson Pollock, “Jackson Pollock,” Arts & Architecture, vol. 61, no. 2 (February 1944): 14.

[20] John D. Graham, “Primitive Art and Picasso,” Magazine of Art, vol. 30, no. 4 (April 1937): 236-39, 260.

[21] Selden Rodman, “Jackson Pollock,” in Conversations with Artists (New York: Devin-Adair Co., 1957), 82.

[22] Robert Motherwell, “Concerning the Beginnings of the New York School: 1939-1943,” interview by Sidney Simon, Art International, vol. 11, no. 6 (Summer 1967): 21.

[23] See Ellen G. Landau, “Lee Krasner’s Early Career, Part Two: The 1940s,” Arts Magazine, vol. 56, no. 3 (November 1981): 88, n. 20. 現在「1940-41年」の作とされ《合作絵画》と題されている、バジオテス、ジェローム・カムロウスキー、ポロックの三人による共同制作の絵画があり、そこではすでにポーリングが用いられている。この作品の詳細については次の文献を参照。Jeffrey Wechsler, “Surrealism’s Automatic Painting Lesson,” Artnews, vol. 76, no. 4 (April 1977): 45-46.

[24] 藤枝晃雄『ジャクソン・ポロック』(新版)、東信堂、2007年、58-60頁参照。

[25] See, e.g., Francis V. O’Connor, “The Genesis of Jackson Pollock: 1912 to 1943” (Ph.D. diss., Johns Hopkins University, 1965), 236, n. 18.

[26] William Rubin, “Jackson Pollock and the Modern Tradition, Part IV,” Artforum, vol. 5, no. 9 (May 1967): 30.

[27] Cynthia Goodman, Hans Hofmann (New York, London, and Paris: Abbeville Press, 1986), 44-45; Cynthia Goodman, Hans Hofmann (Munich: Prestel, 1990), 54-56.

[28] See, e.g., Jeffrey Potter, To a Violent Grave: An Oral Biography of Jackson Pollock (New York: G. P. Putnam’s Sons, 1985), 98-101.

[29] See Rubin, “Jackson Pollock and the Modern Tradition, Part IV,” 28.



[図版キャプション]

(図1) ジャクソン・ポロック 《大聖堂》 1947年 エナメル塗料・アルミニウム塗料、キャンバス 181.6×89 cm Dallas Museum of Art

(図2) 制作中のポロック、1949年 Photograph by Martha Holmes

(図3) 「合衆国のインディアン美術」展(1941年、ニューヨーク近代美術館)でのナバホ族による砂絵の実演

(図4) マックス・エルンスト 《非ユークリッド的な蠅の飛翔に気をそそられている青年》 1942, 1947年 油絵具・エナメル塗料、キャンバス 82×66 cm

(図5) ハンス・ホフマン 《泉》 1944-45年 油絵具、板 28.6×35.9 cm The Museum of Modern Art, New York




■ 6/14(火)公開 第3セクション「ポーリングの技法の展開」 30-35頁に続きます。

■ 転載者(私)の判断によって(ブログ書式上の都合)上記論文中、
  一部『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)とは、
  異なる表記方法(書式が異なるだけです。)をしております。

1: フォント、フォント色
2: 註
3: 自動現象(オートマティスム)=文中【「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。】
4: (強調原文)の文字上の「、」(省きました。)

■ 上記論文中に「図」と記されていますが、当記事では図版の掲載は省きました。
『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)、23-50頁では、図版が掲載されております。

■ 上記論文は愛知県美術館及び筆者の許可を得て掲載しております。
  文章の転載はお控えください。



愛知県美術館 公式ブログ 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」
《「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」の企画者、大島学芸員による記事です。》

1/20 当ブログ 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 展覧会ニュース記事》
《美術の窓誌 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 詳細紹介ページのスキャン画像を公開》




関連記事

「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 愛知県美術館 展覧会ニュース

pollock_20110120222700.jpg
画像は2011.1.20(木)発売 「美術の窓」誌2月号に掲載された誌面であり、
「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」の告知としては、全国で初出になります。
(画像をクリックして頂くと拡大画像により読みやすくなります。)


■ 最新情報 7月25日公開
  「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」 公式ウェブサイト




【ジャクソン・ポロック(1912-1956)アメリカ】

生誕100年を記念して、日本初の回顧展が、ついに愛知県美術館にて
2011年11月11日(金)-2012年1月22日(日)に開催されます。

ジャクソン・ポロックは現代美術の神話であり、金字塔。

アクション・ペインティング及び抽象表現主義の画家で、
44歳と言う若さで亡くなられています。

ポロック出現前は、美術界の中心はヨーロッパ(主にフランス)でしたが、
第二次世界大戦(1939-1945年)後、彼が出現したことにより、
アメリカが美術界の中心となる最大の原動力となりました。



【大島徹也 愛知県美術館学芸員】

本展覧会の企画・実施者は、国内屈指のポロック専門家である
愛知県美術館の大島学芸員であり、
開催メイン館は愛知県美術館です。

ポロック展は過去なんどか構想は練られたのですが、
作品を集めることが困難という理由から実現できませんでした。

今回本展覧会が実現するのは、大島学芸員の実績が高く評価され、
各関係者が信頼により作品の貸し出しを承諾してくださったからです。

必ずや、2度とお目にかかれないであろう、質の高い展覧会を開催され、
私たちに現代アートの真髄を見せてくださることを期待したいと思います。

(画像の文も大島学芸員が執筆されています。)




愛知県美術館ポロック展
開催予告ポスター


愛知県美術館 公式ブログ 「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」
《「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」の企画者、大島学芸員による記事です。》




大島徹也
「ジャクソン・ポロック――オールオーヴァーのポード絵画の成立過程」
『愛知県美術館研究紀要』17号(2011年)、23-50頁。


6/07: 「ポーリングとオールオーヴァーネス」 23-25頁 (リンク)
6/07: 「ポーリングの技法の影響源」 25-30頁 (リンク)
6/14: 「ポーリングの技法の展開」 30-35頁 (リンク)
6/14: 「オールオーヴァーな様式の影響源」 35-39頁 (リンク)
6/21: 「オールオーヴァーな様式の展開」 39-43 (リンク)
6/21: 「オールオーヴァーのポード絵画の成立」 44-46頁 (リンク)

■ 6セクション構成
  上記日 3記事分載(記事初公開日) 


愛知県美術館で開催された後、東京国立近代美術館へ2012年2月10日(金)~5月6日(日)に巡回されます。

今後も「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」について記事を書いていく予定です。




mado.jpg
ヨハネス・フェルメール「地理学者」1669年
シュテーデル美術館蔵


【美術の窓】

TOP画像の本展紙面が掲載されているのは、
1月20日(木)発売の「美術の窓」誌2月号です。

全国の「2011年ベスト展覧会200」が担当学芸員解説と巡回先まで掲載され、
美術好きにはまさに必見のすばらしく充実した内容で、
年間スケジュールも立てやすいと思います。

また、「2010年展覧会入場者数ベスト53」のデータもあり、
こちらも一般の方が知りえないとても貴重な情報です。

B5サイズ、総268ページ。
毎月20日 発売。

全国の書店及び、発行元のweb「美術の窓ねっと 生活の友社」、
webサイト「アマゾン」でも購入可能です。

「美術の窓ねっと」公式サイト
アマゾン「美術の窓」2011年2月号 購入ページ


■ この記事は2011年1月20日に初公開したものです。
  画像の転用はお控えください。


関連記事

アニメーション映像作家 「倉田愛実」 新作 「Holy Grail」 感想



「Holy Grail」 (Tidelands Official Video)
5分17秒  手描きアニメーション
音楽:Tidelands
アニメーション:倉田愛実
楽曲『Holy Grail』ミュージックビデオ

● YouTube 「解像度Setting(画面下)」 をできるだけ高く設定して頂くと
非常に綺麗な動画でご覧いただけ、絵のすばらしさが最大限堪能できます。


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【感想】
すごい! 本当にすごい! 
息を呑むほどの強烈なインパクトに打ちのめされ、
力量と才能をまざまざと見せられました。

ファーストシーンの、暗雲を予感させる木の葉の動きから一気に引き込みます。

中世を思わせるファンタジーの世界を、
手描きで細部まで凝りにこった超絶な描写で表現。
その絵はまさに圧巻たる出来栄え。

3D的な遠近の奥行きを見事に表現し、よりリアルな舞台を創造。
後半主人公が、森を走るシーンは度肝をぬかれ、全編中の白眉でしょう。

際立つ色彩へのこだわり。
この独得な色使いが、高い質を増すベースとなっています。

でも、魅了される最大のポイントやはり人物です。
感情をつたえる表情から、
彼女の世界が一番つたわってくるんです。

そして、胸を締付けられるような切なさや情感が漂うこと。
何より好きな要因です。


Tidelandsの曲もすばらしい! 
何度も聴いてるうちに、病み付きになってきました。
動画との相性も、みごとにあって、
双方にとって効果的なコラボですね。


今回も新たな一面を発見でき、うれしい。
こうした作品に出会えること。
感激しました♪

倉田さん、ありがとう!
これからも、素敵な作品をつくりだしてくださいね。
楽しみにしています。



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「春風列車」 (NHK名古屋 企画作品)
4分30秒
手描きアニメーション
●2010/09/25 00:45~ NHK名古屋「アート空間FIVE」にてTV放映
●2010/09/21~2010/10/31 あいちトリエンナーレにて上映


【出会い】
倉田さんの作品をはじめて観たのは、2010あいちトリエンナーレ。
何気にはいった会場で映し出された「春風列車」から、
丹念に描かれた絵に魅了され、温かさがじわ~と伝わってきたのです。

そして、今回の新作。
本当に待ち遠しかった。
でも、あれからたった5ヶ月の間に1本制作するのが、どれほど大変なことか。
約5分と言えども、ものすごい枚数を描かないといけないんですよね。


【倉田愛実】 公式サイト

NHKTV ETV特集 あいちトリエンナーレ「倉田愛実」アートアニメ
「当ブログ過去記事」


【上映会】 京都 6/14(火)
「映像力・POWER OF THE IMAGE seika-EIZO.festa 2011」
東日本大震災チャリティー上映会
京都シネマ・カレッジウィークvol.16

 ■会期: 2011.6/11 [土] ー 6/17 [金]

倉田愛実 「Holy Grail」 上映日: 6/14(火)8:00PM~10:00PM
「Dアート・アニメーション」 11作品中の1作です。
 

 ■場所: 京都シネマ(京都COCON烏丸)

「映像力・POWER OF THE IMAGE」 公式サイト



《倉田愛実》
Kurata Ami
1985  京都生まれ
2007  京都精華大学芸術学部デザイン学科映像専攻卒業
2010  あいちトリエンナーレ「春風列車2010」「シェルター2007」上映
■ 卒業制作『シェルター』は「ひめじ国際短編映画祭2008グランプリ」はじめ数々の賞を受賞。



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Tidelands 「If...」 (CD) S/R
Release Date: July 26, 2011

《Tidelands》

今回のミュージック・ビデオは「Tidelands」のプロモーション用で、
映像で使われている曲名は『Holy Grail』

『Holy Grail』を含む新アルバム『If..』は、
Tidelandsのデビュー・アルバムとなり、
7月26日にリリースされます。

『Tidelands』とはgabriel leisと mie arakiによる外国のユニット
拠点はサンフランシスコ
ジャンルは洋楽のインディー・ロック

【gabriel leis】
リードボーカル、ギター(ループを使い多重の音をライブで作られてます。)、フリューゲルホルン。

【mie araki】
サイドボーカル、ドラム、シンセの同時演奏でアレンジに広がりをもたさられてます。

お二人で楽曲ほぼ全てのアレンジを再現し、
2人とは感じられないダイナミックな音の幅と空間を
作り上げることが、持ち味のひとつです。


【Tidelands】 公式フェイスブック・ページ

Tidelands  『If..』 公式プロモーションサイト


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『Tidelands』 gabriel leis&mie araki


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